| 福島県市町村 行政視察報告書 平成18年9月15日 提出 愛川町議会議員 熊坂 徹 <テーマ> 市町村合併と行財政改革について(自立へ向けた取り組み) 新市まちづくりの課題と財政見通し 議会改革の取り組みについて
福島県市町村 行政視察日程表
7/23(日)出発 猪苗代町(泊) 7/24(月)会津坂下町(午前9時) 7/25(火)本宮町(午前9時) 7/26(水)国見町(午前9時) 桑折町(午後2時) 7/27(木)伊達市(午前9時) 7/28(金)南相馬市(午前9時) 飯舘村(午後2時) 7/29(土)南相馬市(図書館等で現地資料の調査) 7/30(日)三春町、郡山市(図書館等で現地資料の調査) 7/31(月)田村市(午前9時) 8/01(火)三春町(午前9時) 8/02(水)棚倉町(午前9時) 矢祭町(午後2時) 8/03(木)塙町 (午前9時) 鮫川村(午後2時) 8/04(金)泉崎村(午前9時) 西郷村(午後2時) 8/05(土)帰路 1.福島県の市町村合併 はじめに 学術論文ではないので、誤解を恐れず、わかりやすく単純明快な表現を心掛けた。 客観的というより主観的な表現が多く目につくと思うが、あえてそうした表現を採用した。というのも、合併というのはそこに関わる人々の人間ドラマがあり、何人もそれを客観的に語ることはできないからである。 今回の視察先は、合併に至らなかったところもあるが、市町村合併をしない矢祭町を除き、いずれも何らかのかたちで合併に関わりをもった市町村である。 尚、合併(破綻)に至る経緯については、資料を参照されたい。 福島県の市町村合併については、地元紙である福島民報の特集が参考になる 秒読み市町村合併(1部〜4部) http://www.fukushima-minpo.co.jp/topix/0401tyoson/ 岐路に立つ 市町村 http://www.fukushima-minpo.co.jp/topix/0301tyoson/1.htm @ 会津坂下町 両沼5町村合併協議会 (2004/9/30解散) 参加自治体 会津坂下町,柳津町,三島町,金山町,昭和村
・新市の面積は862ku。県内ではいわき市についで二番目の広さ。 ・会津坂下町と昭和村との距離は約60km。 ・両沼地方の五町村はほとんどが過疎地。 ・新市の人口は約3万1千人、会津坂下町が6割を占める。 ・新市の行政組織は、町村ごとに「地域振興局」を設置し権限を与える「地域内分権システム」を検討。 当初、三島、金山、昭和の3町村で合併協議が始まったが、いずれも過疎で高齢化率も高く財政力もないことから、将来の展望が開けず、もっと広域の枠組みを考える必要があるということで協議会は解散した。 三島、金山、昭和の3町村は高齢化率が40%を超え、県内「ワースト3」。 高齢化率の高い市町村・低い市町村(平成17年9月1日現在)
三町村での合併が白紙に戻った後、会津坂下、柳津両町を加えた五町村での合併協議が始まる。しかし、市庁舎の位置をめぐって意見が対立、再び合併協は解散。振り出しに戻ってしまった。 五町村での合併破綻後、柳津町は会津坂下町を除く4町村での合併を提案。 三島町はこれを断り、単独で会津坂下町へ(飛び地)合併を申し入れた。 しかし、会津坂下町はこの申し入れを断った。(将来のより広域的な合併をめざすべきという考えから) まとめ 両沼五町村の合併が破綻した直接の原因は、市庁舎の位置をめぐる意見の対立だが、ほかにも議員定数の問題など、合併の組み合わせからくる解決困難な問題がいくつかあった。 つまり、新設対等合併とはいえ、会津坂下町が人口の6割を占め、それが新市の中心にあるならともかく、北のはずれに位置していたことが対等合併への足かせとなっていた。 結局、それが会津坂下町と他の4町村が対立する構図を産み、最後は収拾がつかなくなってしまった。 (これは「うわさ」だが、市庁舎をAにするかわりに、新市の首長はBから出すという裏取引まで行われていたとか) しかし、合併が破綻して困るのは会津坂下町ではなく、他の4町村だ。会津坂下町は人口も2万人近く、この地方の中心地でもあり、やりくりすれば何とかなる。ところが、他の4町村、とくに三島、金山、昭和の3町村は、これといった産業もなく、過疎と高齢化がこれ以上進めば、地域そのものの存立すら危うくなるような状態だ。 聞いた話では、昭和村では1年間に産まれる子どもの数が1人とか2人といった状況だという。(産まれる「可能性」がある家がどこに何軒あるか、村人はそれも知っているとか) 三島、金山、昭和の3町村は日本でも有数の豪雪地帯である奥会津に位置する。戦後、その豊かな水量を活かした電源開発が行われ、一時活気を呈したこともあったが、事業の終了とともに人口は減少の一途をたどり、いまでは過疎・高齢化に悩む典型的な中山間地域となってしまった。 それに加えて、この間、ダムなどの大規模償却資産の償却が進み、財政の窮乏化に一層拍車をかけている。 *後日、泉崎村を訪問したとき、昨日、三島町の全議員さんが自立の取り組みについて行政視察に見えた。午前中に泉崎村を視察した後、午後は4町村の議員の集まりがあり、今後、どうしたらいいか、議員同士で話し合うという。 A本宮町 本宮町・白沢村合併協議会(本宮町,白沢村) 当初から1町1村の合併だったので、比較的スムースに協議が進んだ。 しかし、両町村とも内に財政問題をかかえており、その調整に時間がかかったことから、特例法の期限内の合併は断念した。 本宮町 工業団地の債務返済計画 白沢村 行政改革の取り組み むしろ、他の市町村とは異なり、合併特例債を使わない新市の建設、「身のたけにあった」財政運営を基本とした。 合併新法のもとでの全国初の新設(対等)合併となる。 新市(本宮市)の誕生は来年1月1日の予定。 面積は87・94ku、人口は約3万2千人。現在の本宮町役場が市役所となる。市議の定数は、来年7月31日まで在任特例を適用(36人)、8月1日から24人となる。 合併についての考察 地理的には、本宮町、白沢村に大玉村を加え「南達地方」(安達郡の南部)といわれるように、合併の枠組みとしては南達3町村がベストと考えられていた。 この地方は昔からひとつの文化・経済圏を形成していた。 しかし、大玉村が自立の道を選んだことから、本宮町、白沢村の1町1村で合併を進めることになった。
ここで大玉村の概要を述べておく。 人口は約8千5百人だが、「国が一万人にこだわるなら、単独で一万人を目指す村づくりをすればいい」と、かなり自立心旺盛な村。 17年の国調でも、人口減少せず、増加の傾向にある。 国道4号線が村を貫通し、沿線の開発(企業誘致)が雇用と税収の確保に貢献。 合併に関する村長(浅和定次氏)の考え方 「村長として、方向付けのハンドルは切らない」と度々発言。 自立を支持し、自立を求める声が大多数、村民の皆さんは合併を望んでいない。村民の声を尊重し、村の進むべき道は自立であると判断。 そうした村長の考えを受け、平成17年3月、議会は「他市町村と合併せず大玉村として自立していくことについて議会の同意を求める」議案を賛成多数で議決した。 しかし、批判的な議員も多い。 村長の示す自立計画は不十分、数年で村の財政は行き詰ると指摘。 大玉村としては、ある程度の財政力があることに加え、南達3町村の枠組みだとどうしても本宮町が中心となり、大玉村は周辺地域となってしまうこと、そしてさらに将来のより大きな合併の枠組みを考えたとき、二本松市に近いことから、もう一歩が踏み出せなかったのかも知れない。(本宮町は郡山市への志向が強い) それに対して、本宮町は、将来の郡山市との合併の可能性を視野に入れつつ、まずは足元を固めるという意味で、その第1段階として、南達3町村の合併を位置づけていた。 二本松市から見ても、また郡山市から見ても、はずれになるのが南達地方。ならば、いずれ将来合併の大波がやってくる前に、はずれははずれでまとまって、この地域の拠点をつくって置こうというのが本宮町の戦略だが、財政が厳しい白沢村はやむ無くこれに追随したが、企業誘致の効果が見え始め人口増に転じた大玉村は、本宮町中心の合併をよしとせず、自主独立路線を選んだということか。 B国見町(法定協より離脱) C桑折町(法定協より離脱) D伊達市 伊達5町合併協議会(伊達町, 梁川町, 保原町, 霊山町, 月舘町) 伊達市誕生の経緯について 伊達市の誕生は複雑な経路をたどった。 まず、「伊達はひとつ」の考えに基づき、伊達郡9町で任意協がつくられた。 しかし、法定協へ移る段階で、川俣町と飯野町が不参加を表明。(福島市との1市2町の合併へ) 残りの7町で法定協を立ち上げることになった。 伊達7町合併協のキャッチフレーズは「7つの魅力、1つの心」 しかし、途中で、桑折町が法定協からの離脱を表明。 残りの6町で合併協議を進めたが、合併を争点として戦われた国見町の町長選挙で自立派の町長が誕生。 桑折町に続き国見町も合併協からの離脱を表明した。 やむ無く6町での合併協議を休止、新たに国見町を除く5町での協議会を設置し、特例法期限の17年3月ぎりぎりの合併にこぎつけた。 新市の人口は約7万2千人。(すでに7万人を切っている) 市庁舎は旧保原町役場(本庁)と旧梁川町役場(分庁舎)。 旧役場にはそれぞれ総合支所を設置。 議員の在任特例は4か月。議員定数は81人から30人へ。 合併についての考察 @桑折町の場合(合併協から離脱) 伊達7町の合併協議では、新市の名称も「伊達市」に決まり、すでに52項目のうち42の協定項目が確認され、新市誕生は間違いないとみられていたその矢先、まさに突然の離脱だった。 離脱について林王町長は3つの理由をあげた。 @町民に示してきた合併に対する基本的な考え方が満たされない⇒(このままでは合併の本来の目的である自立した自治体ができないと判断した) A行政圏域と生活圏の一体性の醸成は困難である ⇒(市庁舎の位置は川をはさんだ向こう側の保原町になる) B協議内容について町民への説明責任が果たせない ⇒(重要事項がすべて先送り⇒新市にて協議する) また、表明に先立ち、議会の合併対策特別委員会の申し入れを真摯に受け止めた結果でもあるとしている。 桑折町議会合併対策特別委員会の報告書では、以下の理由をあげ、合併については離脱も含めて慎重に検討することとしている。 @住民サービスや負担にかかわる重要施策の大半を「新市において調整する」等先送りしていること A協議会運営に問題があること B合併特例債を財源とする新市計画案に危惧を抱かざるを得ないこと 林王町長は「今後は合併も視野に入れながら、当面は独自の道を模索したい」として、合併に含みを残すという。 こうした表向きの理由とは別に、地元ではいくつか他の理由も聞かれる。 @伊達郡を南北に流れる阿武隈川の存在が大きい。 ⇒桑折町と保原町は阿武隈川の西側と東側にわかれ、経済圏や生活圏が違う。 A桑折町と保原町は、それぞれ東西の雄として、昔から対抗意識が強かった。(宿命の対決) B桑折町には伊達郡役所がおかれていたこともあり、この地域の中心としてのプライドが高い。(郡役所は明治12年保原町に置かれたが、これを不服とした桑折町が「伊達郡分割の願書」を出すなど政治活動を展開し、明治16年、保原町から桑折町に移されたという複雑な経緯がある) C合併協で新市事務所の位置(保原町)について桑折町の委員がかみついたという新聞報道もある。 D保原町と梁川町主導の合併協議だった。それに対する不満。 合併協をリードしたのは、保原町と梁川町の(川東地区)コンビで、川西地区の桑折町は一種の疎外感を感じていたのではないか。 E桑折町はこれといった合併の成果が得られなかったのに対して、市庁舎は保原町に、そして梁川町にも分庁舎を置くことになった。 (梁川町の巨額の財政赤字には目をつぶる) 結果的に保原町長が新市の市長となった(無投票) Fもともと桑折、伊達、国見の西側3町(川西3町)はお互いの結びつきが強く、伊達郡9町より川西3町の合併を望む声が強い。 G合併するのであれば福島市をふくめた大きな合併がいいという声もある。 H現町長の林王氏は共産党(合併に反対)との政策協定を結んで当選したといわれる。 以上のような理由(背景)から、桑折町議会も全会一致で合併協議からの離脱を承認したと思われる。 そして、議会も行政とともに「自立への道」を考える必要があることから、自立のまちづくり調査委員会をスタートさせ、独自の活動を始めたのは見事である。 A国見町の場合(合併協から離脱) 平成16年11月14日、一夜にして合併反対の町長が誕生したことは、それまで合併を推進してきた国見町にとって大きな衝撃だった。 選挙前は現職の富永氏が圧倒的有利というよりも、直前まで対立候補はなく、無風選挙でそのまま続投が予想されていた。 ところが、町長選挙が告示される前日に臨時議会が召集され、伊達6町での合併協議を進める議案が可決(9:8)されたことから、突如(!)、元共産党町議の佐藤力氏が立候補を表明、予期せぬ選挙戦となった。 しかも、選挙結果も予想に反し、現職が敗北、新町長の誕生となった。 佐藤氏の勝因のひとつとしてあげられるのが、共産党の国見支部が30号以上も発行したチラシ「民主国見」だ。 チラシは新聞折込みで各家庭に届けられた。 合併についての情報がきわめて乏しい中、町民にとっての身近な話題(関心事)をわかりやすく説いたことが、選挙の結果に結びついた。 特に、合併のデメリットについて、繰り返し、懇切丁寧に説いたことが町民に理解され支持に結びついた。 ・ 水道料金が大幅値上げになる ・ 国保税が高くなる ・ 介護保険料が高くなる ・ 行政のサービスが大幅に低下する ・ 交通の便が悪く不便になる ・ 他町の借金を肩代わりするようになる ・ 長寿祝い金などが無くなる それに対して、合併のメリットについては、以下のような具合だ。 ・ 町長・議員・職員が無くなったり少なくなり経費が削減される (経費が削減される、反面市政とのパイプが細くなる) ・ 合併特例債が使えると言うけど国見では使えそうな事業が何も無いね ・ あと何かメリットがあるかなぁ、あったら教えて下さい こうしたチラシの内容については、特定の政党が発行するものである以上、合併に対する政党の考え方が反映せざるを得ないが、それにしても相手の弱点を見抜き、徹底的に弱点を攻めまくり、それを首長選挙に結実させたのは、見事なお手並みであった。(少し露骨すぎるのではないかと思うが、これが政治というものか) しかし、議会人として見た場合、いくら急を要するとは言え、町長選告示の前日に臨時議会を召集し、合併の推進議案を可決するというのは、決して好ましいことではなく、議会運営の常識からも外れていると思う。(こちらの方が罪が重い)(しかも、アンケートの実施を控えて) もし、選挙がおこなわれれば、合併が争点となることは明白。議会としても、当然、選挙の結果をまって決めるべきこと。(町民を甘く見ていた) さらにもうひとつ町民アンケートの問題があった。 合併を争点として戦われた町長選挙において、すでに町民の意向は確認されたと考え、アンケートは実施しないのが常識だ。 新しく当選した町長も実施しない意向を表明していた。 にもかかわらず、アンケートの実施時期は「町長選の後」と決っていたとして、新町長が就任する前の間隙をついて、アンケート用紙が発送されてしまった。 新町長就任後、アンケート用紙を開封するしないという一幕もあったが、結果は開封(参考資料として)、6町合併反対の意見が過半数(6割)を占めた。 臨時議会の召集といい、アンケートの実施時期といい、いずれもタイミングが悪すぎる。 ここで、前町長および議会の多数派(合併推進派)の弁護をすれば、これまでの協議の中で、合併の枠組みがくるくる変わってしまって(9町⇒7町⇒6町)、特例法の期限内(来年3月)に合併にこぎつけるためには、もう一刻の猶予もないこと、そうした「あせり」があったことも事実だと思う。そのあせりが思想の混乱を招いたといえなくもない。 町長選挙後は、議会と首長の対立が続き、合併協からの離脱を求める議案も2度にわたって否決された。 翌年の3月議会では、17年度当初予算が自立への道すじが不明確として否決された。(修正案が後日提案され可決されたが) しかし、時すでに遅く、伊達5町での合併(伊達市の誕生)が決定し、協議そのものが終結してしまった以上、国見町は単独町政で行くしかなくなってしまった。 以上、簡単に経緯を見てきたが、改めて合併問題の難しさを痛感した。 民意はどこにあるのか。議会の意思決定の重みは。長の立場、役割りは。などなど。 最後に、国見町議会における合併をめぐる議論を少し見ておきたい。 議会内勢力は議長(推進派)を除き、わずかだか合併推進派が反対派をうわまわっていた。(9:8) 合併推進の理由は財政問題。 ある議員の次の言葉がそれを物語っている。 「わが町のような典型的な3割自治体が国に逆らってうまくやっていけるはずがない」 反対派の町長が誕生した後も、合併推進派の抵抗は続き、合併協からの離脱議案も2度にわたって否決された。また、町長選挙で示された「民意」そのものに対する疑問も示された。 「町長は、自立は町民が選んだのであり、それが民意だというが、私はそうは思わない。チラシ「民主国見」34枚による世論を間違った方向に誘導していくポピュリズム、大衆迎合主義、すなわち誘導が大と思われる。」(議事録より) また、新町長が単独町政を選んだことに対する疑問(批判)も次のようなことばに表れている。 「このまま自立の道を歩めば、期間が経てば経つほど人口も減り、高齢化による産業の衰退、そして税が減少し、行政サービスが円滑に回らなくなり、吸収合併または知事からの勧告等を受け不利益が生じてからの合併では、将来の国見町の人々に申し訳ない」 一方、新町長の単独町政を支持する議員からは、当面は自立で行くのがいいとして、次のような考え方も示された。 「国道4号線、JR線、高速道路インター、新幹線と交通機関にも恵まれている。近い将来、経済圏である福島市への合併が実現すれば、明るい展望が開ける」 たしかに、国見町にはそうした要素(将来への可能性)があることも事実である。そうした将来性に期待し、当面は自立の道を歩むことも、選択肢としてはあるかも知れない。しかし、そうした期待が実現する前に、おそらく町の人口は1万人を割り込んでしまい、町の財政も運営が難しくなってしまうのではないか。案じられるところである。 *否決された17年度当初予算案のその後だが、翌日、議会全員協議会が開かれ、7件の具体的修正事項が指摘された。 町は、7件のうち介護者慰労金については修正に応じたが、他の6件についてはさらに協議・検討を行い、必要があれば補正予算で対応する方向で予算案を修正、議会に提出した。 議会の審議では、予算案の具体的内容については踏み込んだ議論は行われず、町長が新聞社の取材に対して、「予算案を否決するのは議会の暴挙だ」とコメントしたことが問題になった。 しかし、今後、議会の批判は厳に謹むこと、そして自立へ向けた具体案を町民によく説明することを要請して、討論もなく、予算案は全員賛成で可決された。 B伊達5町合併の考察 「伊達はひとつ」のスローガンの下合併協議がスタートしたが、最初は9町から7町へ、更に6町から5町へと合併の枠組みは大きく変化した。 一番の危機は、桑折町が突然離脱を表明したときだった。 「いま状況を見るに、桑折町が離脱、それから国見町がおたおた、それから霊山町が臨終間近のような情勢、そして伊達町がぶらぶら、健全なのはひとり保原町、そういう状況でこれを議論しても始まらない」との議会(保原町)発言もあったくらいだ。 伊達町の首長選挙は僅差で合併派が勝ったが、国見町では劇的な逆転負けを喫してしまった。霊山町では、共産党の町長ということもあり、その動向が注目されたが、町の財政が極端に窮乏化していることから、大局的な見地に立ち、自立への道を断念したといわれる。 まさに、満身創痍、難産の末の伊達市誕生であった。 くるくる変わる合併の枠組みの中で、当然のことながら、新市建設のための課題の整理や主要事業に関する具体的協議は後回しにされざるを得なかった。 とにかく、何が何でも特例法の期限内に合併の申請をする、その目標に向かってしゃにむに駆け抜けたのが、最後の半年間だった。 当事者にとっては、本当に大変なこの1年間だったと思う。 そのときからすでにだいぶ経っているにも関わらず、私の個人視察に対応してくださった方々の顔には、やれやれやっとゴールインできたという安堵の表情がいまだに感じられた。(お疲れ様でした) 議会においても合併をめぐって白熱した議論が展開された。 保原町議会では合併反対の立場から次のような議員発言があった。 「合併してもしなくてもこれからの町の運営は大変だ。同じ苦労をするなら、合併しない方が、町は残るし、町民のつながりもより強固になれば、町民のためになる。」 それに対して町長は次のように答えた。 「合併したからそれで万歳というものではない。合併しても矢祭町のような努力をしていくことは必要だ。しかし、単独でやるより、近隣の町と協力してやった方が効果もあがるし、お互いの連帯感も出てくる。」 どちらにも一理あるが、軍配は町長にあげたい。 (しかし、実際、その通りになるかどうかは別の問題である) *新しい自治のあり方を求めて 合併協議を進める上で、一番心を砕いたのが、それぞれの地域の自治のあり方だ。伊達市の考え方は、一極集中を廃した分散型の合併だ。 「今回の合併は過去の一極集中型の反省を踏まえ、各町の生活、文化、伝統などを大事にする、いわゆる分散型の合併を実現することも目指しています。」 (仁志田市長の就任のあいさつ) これまでの合併は、市の中心部だけが栄え、周辺部は寂れてしまうのが常だった。(いわき市の例のように) それでは困る。何とかしようということで考えだされたのが、分散型の合併だ。旧町村の特性を生かし、それぞれの地域を大事にしながら、地域の特性を生かしたまちづくりするために、旧町には総合支所を置き、地域審議会を設置する。権限と予算も与える。 しかし、過去に例がなく、具体的な(成功)モデルがない中で模索しながらやって行くしかないのが現状である。 地域を大事にしながら、同時に全体としての効率性、統一性を追求する。大きくなりながら小さくなる⇒矛盾する面もある。(前保原町長) 成功するかどうかは、今後の取り組みにかかっている。注目したい。 <現地の人から聞いたことば> *伊達市って一時しのぎの合併じゃないかな。いずれ福島市と合併することになるのは間違いない。 *合併といっても、騒いでいるのは役場の合併だ。ほとんどの住民は関心がない。 *住民にとって広域合併はすでに既成事実。生活のレベルではとっくに行政の枠を超えている。 E南相馬市 F飯舘村(法定協より離脱) 南相馬合併協議会(原町市, 鹿島町, 小高町) 南相馬市誕生の経緯について 当初、広域合併を目指し、相馬郡全6市町村で任意協を設置した。 しかし、相馬郡の南端に位置する小高町が双葉郡浪江町と合併協を設置。 相馬市と新地町(宮城県に近い)は合併に消極的。 相馬地方が一体となった合併は特例法の期限(17年3月)までには無理と判断、任意協は解散、振り出しに戻った。 そうした状況の中、原町市は隣りの鹿島町、飯館村と任意協議会を設置、3市町村による合併を目指し、また、相馬市は新地町と任意協を設置して、2市町による合併の可能性をさぐることになった。 このように、当初のオール相馬による合併は3つに分裂してしまった。 その後、相馬市と新地町の合併は破綻、小高町は浪江町との法定協を解散して、原町市グループに参加。 4市町村による合併を目指したが、突如、飯館村が合併協からの離脱を表明。特例法の期限ぎりぎりで、原町市、鹿島町、小高町の3市町で構成する南相馬市が誕生した。 基礎データ
合併の基本理念 1.合併後もそれぞれの地域の主体性を尊重する地域分権分散型の合併 2.地域の特性を残す、生かす、伸ばす合併 3.地域が互いに補完し合い、貢献しあう地域間ネットワーク型の合併 住民に身近なサービスを提供する総合支所としての区役所(予算の配分枠あり)と地域協議会で構成する自治区を設置 *在任特例 (11 ヶ月) 新市の議員定数 26人(原町区14、小高区6、鹿島区6) 数字を見ても明らかなように、この合併は、どうしても原町市中心の合併にならざるを得なかった。人口も新市の65%を占める。それが原町市に吸収されるという不安心理となって現れた。 ⇒飯舘村は途中で離脱。 ⇒小高町は、最初は参加せず、双葉郡の浪江町との合併を目指した。 「1回目は小選挙区だが、2回目大選挙区になれば原町選出の議員が20人以下になることはないだろう」といった発言(市長の?)もあり、不安感(不信感)を広げた。 「どうも衣の下の鎧が見え隠れしているように思える」とはあるとなり町議員のことば。 合併についての基本的な考え方 旧原町市長(⇒南相馬市長) 新しい時代に向かっての住民のための行政基盤をどうつくっていくかということが基本である。(自立できないから合併するのではない) 今回の3市町の合併には相馬地方一体的な合併のワンステップとしての先行的な合併の位置付けである。 だが、合併推進のリーダー役の原町市も、近年は産業・経済の衰退による地盤沈下が激しく、こんな市と合併してもプラスにはならないという声もあった。(逆に、原町市にとっては、合併は浮上をはかる千載一遇のチャンスであった) それがあまりにも見え見えなので、小高町や鹿島町の議会でもそうした点が度々指摘された。 「財政シミュレーションでは、小高町はこの中では最も健全な部類に入っている。それに対して、原町市は、失礼かもしれないが、最悪の数字を示している。20年後まで、小高町は努力をすればやっていける範囲だが、原町市の財政は場合によっては破綻をするおそれがある。これば財政困難な原町市を救済するための合併ではないか。」(小高町議会の会議録より抜粋) それに対して、強気の原町市が、「原町市は合併しなくてもやっていけなくはないが、周辺町村の状況を見れば見捨てるわけにはいかない。」と発言(失言)。 これに2町が反発。合併しない場合のシミュレーションで累積赤字が一番多いのは原町市じゃないか、「見捨てるわけにはいかない」とは何を言ってるのか、と逆襲。結局、市長が謝罪したという。 結果的には1市2町になったが、新市の構成としては最もバランスのとれた組み合わせになった。地理的にも原町区を中心にそれぞれ南北に鹿島区と小高区が位置。昔から「浜通り」の中で(相馬野馬追い祭など)交流も盛ん。風土・文化も似たもの同士。 そのためこんな話も聞かれた。「せっかく飯舘村のために分権分散型の合併を進めたのに、その飯舘村が離脱。これでは何のための分権分散かわからない。新市の一体感を醸成するためには、地域自治区はむしろ障害。できれば、10年も待たず早期に撤廃したい。」 <参考> 1.浪江町・小高町任意合併協の経過について 平成15年5月、相馬地方任意合併協が解散する前に設立。 相馬郡の南のはずれに位置する小高町は、地理的条件を考え、となりの双葉郡浪江町との合併を目指した。 (浪江町からは以前からラブコールがあった) (2町の人口は3万人⇒市への昇格をめざす) ○小高町の考え方 まず、浪江町との合併を実現し、市へ昇格(3万規模で新しい市を認めるという特例)。 次の段階は、この3万市をベースに、原町市とは即合併ではなく、広域連携(⇒広域連合も視野)を進める。 そうした段階を経て、相馬郡全体でのより広域的な合併をさぐる。 しかし、そうした状況の中で、浪江町長選挙が行われ、小高町との合併を進めていた現職が大差で敗れてしまった。 新しく町長になった横山氏は、5万人田園都市という構想を打ち出し、双葉町・大熊町・葛尾村・小高町と5町村による合併を主張。一夜にして、2町の合併構想は吹き飛んでしまった。 2.相馬市・新地町任意合併協について 平成15年5月、相馬地方任意合併協が解散したことから、相馬市は新たな合併の枠組みを模索。翌16年5月、新地町に対して、1市1町での任意協の設置を申し入れた。 16年8月、任意協を設置。以後8回の協議が行われたが、新地町長から「合併に対する機運が熟していない」ため任意協を「一たん閉じさせていただきたい」との提案があり、目下中断中。(事実上の解散) 基本データ
結論から言えば、条件が悪すぎた。 @隣同士でも、新地町からすれば相馬市への吸収合併となる。 A相馬市の財政が悪すぎる。 B逆に、新地町の財政は良好。(財政力指数1.20) こうした条件の悪さに加えて、協議の進め方にもいくつか問題があった。 @新地町への申し入れに当たり、相馬市長は、「合併先にありきではない、合併特例債目当ての合併はしない」と明言した。 しかし、議長名で「合併特例法の適用範囲内での合併は支持するが、それ以降の合併は支持しない」旨の要望書が出された。 A相馬市は、15年9月、財政非常事態宣言。翌16年6月、1年も経たないうちにこれを撤回した。 B財政的事情で凍結された計画が、いくつも新市将来構想の中で重点プロジェクトとして復活した。(相馬駅付近の東西橋上通路の整備など) C新地町では、合併への疑問や疑念、反対意見が噴出。町長リコールの声まであがった。 D区長会や商工団体などから、合併に反対あるいは時期尚早とする請願や陳情がされ、新地町議会はこれを採択した。 (まだ相馬市との合併協議が進行中であり、新地町議会が単独で意思決定をするのは少し問題があると思うのだが) こうなってみると、相馬市長の「合併は相馬と新地に住む地域住民の明るい将来、特に子供たちに明るい将来を残すため」という言葉が虚しく響く。 新地町にとっては、財政力指数 1.20(火力発電所の大規模償却資産税が大きい)があることから、財政的に困っておらず、「理念なき合併」は耐えられなかったということか。 今回の合併は成功しなかったが、これで永遠に幕が閉じられたわけではない。 相馬市と新地町は、工業用水、農業用水、飲料水、そして衛生の問題、病院経営、そして火葬場と、「生まれてから死ぬまで」一緒のことをやっている。 また、巨大プロジェクトである相馬地域開発も両市町にまたがっており、まさに、「運命共同体」と言える。「やはりいつの日か合併するのが当然かな」と思う。(相馬市議会の会議録より) 次に、今回の合併で「台風の目」となった飯館村について、少し詳しく見ていきたい。 飯舘村の軌跡 − 合併から自立へ − 飯舘村 人口6,831人 財政力指数 0.21 自立を選んだ飯舘村の場合、その歩みは決して平坦なものではなかった。 同じ相馬郡に属するとはいえ、飯舘村は郡のはずれであり、海沿いに明るく開けた「浜通り」の小高、鹿島や原町とは違い、典型的な中山間地の過疎の村。 その違いをどう克服するかが合併のポイントだった。しかし、最後までそのギャップは埋まらなかった。 飯舘だけでなく、鹿島や小高も合併という同化作用の中で、原町市に吸収される恐怖や不安と戦った。 しかし、鹿島や小高にとっては1m〜2mの高さからのジャンプでも、飯舘村にとっては、それが10mもの高さからの死をかけたジャンプに見えたのかも知れない。 飯舘村の場合、地形、文化、歴史、風土、日常生活圏に至るまで、あらゆる面で相反する要素(力)が拮抗しており、それが合併(自立)に対する判断を一層難しくし、引いてはそれが首長の心理的葛藤と迷走劇につながったのだと思う。以下、簡単に経過をまとめてみる。 飯舘村の合併問題に関する経緯 平成15年 9月16日 原町、鹿島、飯舘3市町村で任意協を設置。 12月21日 住民投票(投票率68.22%) 賛成 1893 47.3% 反対 2107 52.7% いずれも目安とした60%に届かず、最終判断は村と議会の協議へ。 平成16年 1月7日 菅野村長、議会全員協議会で法定協不参加の意向を示すが、議会はこれに反対。 1月15日 菅野村長、議会全員協議会で法定協への条件つき参加を表明。 1月20日 臨時議会で法定協への参加決る。(賛成9、反対8) 1月27日 任意協で小高町の加入が承認される。 2月13日 4市町村議会で法定協設置が確認される。 2月20日 第1回法定協が開催される。 8月21日 第9回法定協。 50件の協定項目のうち35件が確認・決定される。 9月7日 定例議会の冒頭、菅野村長が「自立が最善の道」として法定協からの離脱を表明。 9月17日 法定協からの離脱議案は、賛成8、反対9で否決される。 10月12日 任期満了に伴う村長選挙が告示される。 自立を訴える現職の菅野氏と合併推進の前副議長山田猛史氏が立候補。 10月17日 現職の菅野氏が当選。(投票率90.09%) 菅野典雄 2755 山田猛史 2304 この間の動きを見るに、まさに、迷走する飯舘村といった感がある。 その最大の原因は、首長である菅野村長の揺れ動いた心(政治的決断)にあった。しかし、揺れに揺れた合併劇であったが故に、議会人としてはこの飯舘村の事例から学ぶことが多い。 まず、平成15年12月に行われた住民投票に注目したい。 菅野村長は住民投票に至るプロセスを「王道」と自負する。この3年間、地区懇談会やシンポジウムそして合併問題をディベートで考える村民集会などを開催。また、住民への情報提供も、合併した場合(合併協の新市将来構想)と合併しない場合(村独自の自立ビジョン)の両方を示した。懇談会の出席率(世帯)も、他市町の10%以下に対し飯舘は50%を超えた。 これだけ時間をかけて住民に説明したのだから、合併への反対票が大きく上回るのではないか、菅野村長のどこかにそんな期待(自信?)があったかも知れない。 しかし、結果は予想に反し、賛否が拮抗した。ある議員は「村長が反対でも賛成でもないからこういう結果になった」と村長の煮え切らない態度への不満をもらした。(自分では反対なのに、3年もかけて賛成の説明会を開いてきたからこういう結果になった) ⇒村長がはっきりと合併反対の姿勢を示せば、村民はそれを支持したはず。 また、「村長自身が合併に対する態度を明確にし、政治的な責任をとるべきだ」という声も聞かれた。(正論である) 結局、住民投票では決らず、判断は村と村議会の協議に委ねられた。 しかし、議会では合併推進派が多数を占め、自立をめざしたい村長とは対立関係にある。そこで、村長、年末から年始にかけ合併派の切り崩しに動いたが、さしたる成果もなく、1月7日の議会全員協議会を迎える。 そこで村長は法定協への不参加の意向を示す。 しかし、合併派の議員を説得することができず、再度1月15日に開かれた全員協議会で、条件付き参加を提案。議会もこれを了承し、1月20日の臨時議会で法定協への参加を決める。(賛成9、反対8) *条件とは、次の2つの条件が解決できないときは離脱もありうる。 @新市構想が示す地域自治組織が飯舘村の特殊性を活かすことができないとき、つまり、周辺部がさびれないような合併の形をとることができないとき A村にとって損失があまりにも多すぎるとき 臨時議会で、村長は、「法定協に臨むことはほぼ合併に向かうことである」と述べ、さらに、「合併しない状況できちんと行政経費を確保する力があれば、小さな自治体をめざし、顔の見える行政でいいが、それができない状況になっている」と答弁しいている。また、「地域自治組織」についても10年経ったら解消では困るので条例化に努力すると前向きな姿勢を示した。 とにかくこれで村の方向は決った。誰もがそう思ったはず。しかし、これには落とし穴があった。 誰が、いつ、どのように判断(決定)するのか、その点が不明確だったことだ。 そして、それが後に混乱を招いた。(村長の突然の離脱宣言) ◆ 議会の側からすれば、お互いの信頼関係からして、議会に一言の相談もなく、勝手に村長が突然の離脱宣言をするなんて、思ってもみないことである。 ◆ しかし、あり得ないと思っていた、その「まさか」が起こってしまった。 ◆ 後から考えれば、こうした事態の予防策として、離脱する場合のルールも決めて置く必要があったのではないか。 ◆ 議会の常識からすれば、あまりにもばかばかしい事かも知れないが、お互いの信頼関係を反古にしないためにも、最低限の協議ルールを確認し合うことが必要だったと思う。(誘惑の気持ちを起こさせないためにも) ◆ しかし、何といっても「合併」というのは村の将来を左右する重大問題である。お互い、しっかり、じっくり、冷静に議論する必要があることはいうまでもない。しかし、現実は得てして議論は平行線を辿り、挙句は感情的な対立になりやすい。飯舘村でも、村長と議会が対立、議会も賛否の意見が拮抗し、不安定な状態であったことを考えれば、なお更、予防策を考えておくべきだった。 ◆ 伊達郡の桑折町も町長が突然離脱を表明したが、議会とはすでに事前に協議・了承済みであった点が大きな違いだ。 さて、2月20日には、第1回法定協が開かれ、4市町村による合併協議がスタート。8月21日の第9回法定協では、50件の協定項目のうち35件が確認・決定。合併協議は順調に進められていると思っていたその矢先、突然、9月7日、定例議会の冒頭、菅野村長が「自立が最善の道」として法定協からの離脱を表明した。議会は休憩。急遽、議運が開かれ、緊急質問を行うことを決定した。 <離脱の理由> @飯舘村は他市町とは環境が違う。 A分権分散型合併に対する思いが違う。 B合併すれば地域づくりに取り組む活力が失われる。 ⇒財政援助よりもっと大切なもの しかし、これでは理由にならないのではないか。 翌日の福島民報も「見えぬ具体的理由」という見出しで1面トップの報道。 「具体的な理由は最後まで明らかにされなかった」と結んだ。 @ については、他市町の側からも同じことが言えるし、それを承知で合併協に参加したのではないか。 A の分権分散型合併については、むしろ、逆に飯舘村の言い分を通す形でまとめられてきたはず。 ⇒村長も、地域自治組織については、ほぼ希望通りの姿になったと自ら認めている。 B をいうなら、はじめから合併の道を選ばないことだ。 実は、議会に提案する前に、職員に対しては事前に離脱の説明をしていた。 しかし、福島民報の記事によれば、職員からは「理由が明確でない」「分権分散型の合併協議が進んでいたのに離脱は納得がいかない」あるいは「村づくりのビジョンが見えない」といった疑問の声が出されたという。 さらに遡ると、実は、6月議会を前に、菅野村長は全員協議会で離脱の提案をしていた。基本理念の議論が先へ進まず先送りされていると言ったところ、今頃何を言っているんだと相手にされなかったらしい。(議事録から分かる) そうした村長の煮え切らない態度に対して、6月議会の中では、1月のときにも合併反対だと言いながら結局、賛成に行く。今度は離脱したいと言って、また戻ってくる。どうも村長「ことなかれ主義」じゃないか。とか。 「自分は反対だと言って、なんか周りがそうだからといって今度は、いや、じゃあ賛成。今度は自分で目の前を見たらば、これは離脱しなければならないと言っても、みんなに今さらやめられないからと言われて、また、そうかなといってまたひっくり返すという、この応答はいかがなものか」とトップの迷走を厳しく批判された。 それに対する村長の答弁は、「ずっと最前線でいろいろ交渉させていただいて、責任を肩に負った中で、そのときそのときの最大の判断を総合的にさせていただいている」というわけのわからないものだった。 確かに、突然の離脱表明だった。しかし、水面下では、1月の法定協への参加以来、ずっと菅野村長の胸の中は激しく揺れ動いていたに違いない。それが6月議会直前の動きとなって現れ、一旦はホコを収めたものの、遂に9月定例議会の冒頭、議会を無視しての一方的な離脱表明となった。 * 10月に村長選挙が予定されていることから、これが離脱を表明する最後のチャンスでもあった。 * 村長の離脱表明は事実上の議会との「決別宣言」であり、以後は村長選挙を睨んでの政治闘争に移行した。(このことについては、また後で触れる) さて、突然の離脱表明で、案の定、議会は荒れに荒れた。 村長派の議員からも厳しい批判の声が飛んだ。 「君子の豹変ぶりに驚いた」とか「村長の二転、三転した判断の甘さからくる政治的責任はきわめて重い」といった発言まであった。 反村長派の急先鋒である山田猛史議員は緊急質問で激しく村長に迫った。 自主財源のない村が頼りにしてきたのは、国からの交付税と過疎債だ。しかも、その交付税は大幅な削減、過疎債も制度の見直しで当てにならない。これから 1万人未満の自治体は非常に厳しい財政運営になる。 だから、みんなで合併の道を選んだのではないか。合併しても周辺が寂れないように、飯舘試案をつくり、分権分散型合併、地域自治組織などを提案してきた。それでもまだ心配なので、住民基本条例をつくり、制度として将来も保障していくことで合意した。村の考えと合わないと言うが、むしろ村の要求は実現してきた。村長の言ってることは滅茶苦茶だ。 「そもそも合併には反対だった村長は、合併条件のハードルを高くし、意見が通らないからという理由で離脱を図ろうとしたのだとしか思われない」 国は、合併特例債などのエサをつけなくても、地方交付税、過疎債をはじめとする国からの財源をなくせば、小さな自治体は合併せざるを得なくなるという考えに変わってきている。しかし、一般の村民にはそうしたことは分からない。村税収入4億、人件費8億、地方交付税8割を頼りにしている村だということが村民にはわからない。確かに、合併の水は苦いかもれない。しかし、自立の水はもっと苦いということを認識すべきだ。 *まさに正論であり気合の入った緊急質問だった。それに対する村長の答弁が期待されたが、、、、 村長の答弁は、苦渋の選択として自立を選んだ。交付税の問題も厳しいが、また、規模を大きくするのも一つの道だが、行政の質を高めること、厳しい中からみんなが創意工夫をして村づくりをしていきたい、、、など、ほとんど答弁にならなかった。 また、良識派の議員からは、離脱表明について、村長からは何ひとつ理由らしい理由は聞かれなかった。全員協議会での説明もない。(⇒村長謝る)離脱するなら、住民投票の際にすれば良かった。合併協では50項目のうち35項目はすでに決っている。突然の離脱で今後の(ごみ、し尿、消防など)広域行政への影響が心配だ。と痛いところをつかれ、村長は平謝りにあやまるしかなかった。 しかし、議会での答弁がどうあれ、離脱表明の時点で政治的決着は10月の村長選挙で行われることになった以上、ここはとにかく嵐が過ぎ去るのを待てば良かった。村長選挙でどちらが勝つか、それによって合併か自立かが決るのだから。まさに単純明快そのもの、議論で負けても選挙で勝てばいいのだ。 そして、結果はその通りになった。合併派は議会での議論には勝ったが、選挙で負けてしまった。(菅野村長の作戦が見事に成功!) しかし、なぜ、合併派は10月の村長選挙に向けた準備をしてこなかったのだろうか。離脱表明があって、それを議会が否決。その後で合併派はあわてて副議長の山田猛史氏が立候補を表明。選挙態勢に入ったが、いかんせん選挙の1か月前では出遅れの感は否めなかった。 合併か自立かを争点にして選挙戦が始まった。以下は福島民報の記事である。 菅野村長は「考え抜いた末の決断。村民のために何としても村を残したいと思った」と自立を選択した理由を説明する。その上で「(合併を推進する国の)特例措置というニンジンに目を奪われてはいけない。今は村の質を高める時代だ」と村の自立に自信を見せる。 一方、「合併やむなし」とする山田副議長は「合併協では村の要望の多くが受け入れられている。この後、合併といっても村の言い分は通らなくなる」と危機感をあらわにする。「合併による分権分散型の地域づくりこそが、村民の生活を守る道だ」と主張する。 しかし、議会の中とは違って、選挙では村長が主導権を握った。2期8年間の実績に加え、いままでのユニークな村づくりが「飯舘ブランド」として評価されるようになってきたことも現職の強みだった。 最近のイメージ型の選挙においては、候補者の個性を強烈にアピールする何かがないと有権者の支持は得られない。選挙巧者の現職はそうした自分のストロングポイントをフルに活用した。 また、選挙には、自立派のチャンピオン、矢祭町の根本町長も応援にかけつけ、自立へ向けた熱い思いを語ってくれた。それが強力な支援となった。 その点、対立候補の山田氏は、議会の多数派の支持を得ているといっても、現職に比べて認知度は低く、実直にして誠実、かつ理論家であったとしても、有権者に対するアピール度という点でははっきり現職に負けていた。 <選挙ポスター> 菅野典雄氏 村民を思えばいいたて村で 山田猛史氏 分権合併を推進し暮らしを守ります 現職の菅野氏が当選。(投票率90.09%) 菅野典雄 2755(54.46%) 山田猛史 2304(45.54%) <当選後の菅野典雄氏へのイタビュー> 合併せず飯舘村を残せるという思いでいっぱい。村民が真剣に古里を考えることになったのが大きな勝因。 とにかく選挙は終わった。そして飯舘村は菅野村長の下「自立への道」を歩むことになった。 しかし、合併問題を通じて、みんなが本当に村の将来を考えることができたのだろうか。「村民が真剣に古里を考えることになった」と言うが、それは疑問だ。 これから村の暮らしがどうなるのかとか、若者たちがこの村に住み、子どもを産み育てることができる「生活の基盤」をどうやってつくるのか、といった議論はあまりなかった。 そのかわり、生まれ育ったこの村がなくなるのは嫌だ、この村を残したいといった感情やムードが先行。逆に、それが村の現実に目を向ける妨げとなった。 このことが飯舘村の将来にどう影響するか。目をそむけた「現実」がいつ牙をむいて襲いかかってくるか、、、きっとそれは村長の離脱宣言のように、ある日突然やってくるのかも知れない。 ここで改めて、住民投票から法定協への参加、突然の離脱宣言、そして村長選挙というこの1年間の流れを振り返って見たとき、結果として、あまりスマートとはいえないが、やはり村長の「作戦勝ち」と言える。 しかし、これをやられると村にとってダメージが大きい。いままで真面目に村の将来(合併という方向で)を考えてきた人たちは、村長への不信感(同時に嫌悪感も)が増し、今後の村政へのコミットメントに力が入らなくなる。村にとっては大きなマイナスだ。シコリはないというが、村長に裏切られた合併派の人たちの疲労感と虚脱感は相当なものだと思う。 選挙で決着をつけるのだったら、最初からその方針で行くべきだった。その方が首長としていさぎよかったし住民にもわかりやすかった。議会や合併協に迷惑をかけ、村の信頼を失うことにもならなかった。(渦中にあった当事者=村長さんは必死だったと思うが) 最初から合併しない宣言をした矢祭町とは対照的。根本町長の政治手腕(⇒先見の明)は相当のもの。 以上、飯舘村の合併問題を見てきたが、痛感するのは議会と首長の関係の難しさだ。とくに議会と首長の意見が対立したとき、残された道は選挙による決着しかない。しかし、相模湖町のように、住民投票と首長選挙の結果が異なるケースも出てくる。また、選挙で選ばれたはずの首長がリコールされることもある。(城山町)そうなると一体民意はどこにあるのかわからなくなるが、民意も状況によって変化すると考えるべきだ。そして民意が必ずしも正しいとは限らないことも認識しておく必要がある。(修正可能なのが民主主義のいいところ) ここで改めて言う必要もないことだが、住民を代表する議会と首長が心すべきは、考え方の違いや意見の対立は仕方ないにしても、お互いを信頼し、きちんとルールを守ること、それが大切。とくに、議会や住民の間で賛否が拮抗しているときはなお更だ。どちらを選んでも半数近くの人が反対なのだから。ルールはきちんと守らないと、後で、まちの中がめちゃめちゃになる。飯舘村のケースを見てつくづくそう思った。 <参考> 1.合併に対する各議員の考え方(抜粋) 山田猛史議員(後に村長選に立候補) 「できるなら村としてがんばりたい」この気持ちは私も同じだ。しかし、財政の見通しが立たない以上、自立の道はいずれ吸収合併になる。地域特性を行かした分権分散型合併を実現する。 佐藤長平議員(合併反対の急先鋒) なぜ反対か。それは今回の合併は財政の効率化だから。合併が地域の活性化に結びつくものがないから。 ⇒では、自立(単独)なら活性化できるのか? 議論の方向が現実的な自立(政治のレベル)でなく、精神的な自立(個人のレベル)に傾き勝ちなのが気になる。(村長にもその傾向あり) 佐藤八郎議員 自らの意思表明ができない村長が法定協から離脱できる理由はない。「村を守りたい」村民への言い訳だ。離脱にそんなに自信があるなら、なぜ、合併に進むのか。矛盾した村長発言は合併反対の村民を無視するものだ。 下枝議員 村の財政は苦しくなるばかり。高齢化でボランティアはできなくなる。我慢を強要するだけでは良い村づくりはできない。 佐藤典雄議員 迷走する村長の説明不足は重大だ。1月7日の全協(参加せず)、1月15日の全協(条件つき参加)。なぜ、1週間で急転したのか。20日の臨時会でも、自分の意思に反するような提案説明。いったい村長の真意はどこにあるのか。主権者村民に「までい」に説明すべきだ。 熊谷議員 誰しもできることなら「自立」と思っている。しかし、財源の確保など現状のままではいかんともならない部分もある。その解決策を明確に示すことができない以上、合併もやむを得ない。 ⇒もっとも常識的な判断だと思う。(賛成) ただし、合併をその解決策と考えると道を間違える。合併はあくまでもまちづくりの手段であり、より広域の枠組みの中で、地域の生き残り(⇒発展)を考えるべき。「自立」というのは言葉としての響きはいいが、「自給自足」とおなじように、現代社会においては現実的に不可能。 むしろ、地域の特性を活かし、広域的な相互の交流・連携を考えるのが現実的だと思う。また、「自立」という言葉は精神的(ときとして感情的)な意味合いが強く、現実に対して盲目になることもあるので注意が必要。 2.近隣の首長、議員のことば(議事録から) 旧原町市長 ただ、よく言われておりますように、村から上がる税収が4億円で、村の職員を含めた行政の人件費が8億円という世界の中で、今の厳しい国の財政の状況から見まして、果たしてそんなに単独で何年かやっていけるのかという心配はございます。 ある議員さんの発言 するとですね、今までの経過も含めて、分権分散型も含めた形の中、あるいは数字的な話から言うと決して飯舘さんに不利益、俗に言う数字的なものも含めて不利益になるというふうなことの進め方ではなかったと。それで、大変簡単なことを言いますと、結局合併しないで4年間私は村長やったほうがいいからやったんだみたいな形で収まる問題でもないとは思うんですけども、これほどある面では譲歩的な形をしているにもかかわらず離脱をしたと。協議会のメンバーとも一生懸命合併に向けて協議をなさってこられたという部分で離脱ですから、そうしてみると個人プレーに走ってしまったのかなという感じ。 まとめの考察 一口に「合併」と言ってもいろんな顔がある。また地域によっても受け止め方は様々だ。合併の吸引力が強いところもあれば弱いところもある。 そんな中で村を二分する合併劇が繰り広げられたのが飯舘村だ。議会の勢力も真っ二つに割れた。 誤解を恐れず単純化して考えれば、これはある意味「若者」と「お年寄り」の問題(対立)であった。 若者⇒広域生活者⇒生活の糧を求めて村の外へ⇒合併 お年寄り⇒村内生活者⇒村の中で働き、暮らす⇒自立 飯舘村が選んだ自立の道とは、村内生活者であるお年寄りや農家の期待に応えることを意味した。つまり、若者の期待はどこかに忘れ去られてしまった。自立でお年寄りは喜んだかも知れないが、若者は失望した。 若者の目から見れば、10年・20年のスパンで考えると、高齢化がますます進むこの村を誰が支えていくのか。お年寄りが村の産業・経済を担うことができるか。矢祭町のように、企業を誘致して雇用を確保、人口を増やすという取り組みが飯舘村にあるか。自立計画の中にそれがあるか。何もないではないか。というのが若者から見た自立をめざす村の姿である。 それに対して、原町市への不満はあるが、将来の見通しがない以上、仕方がないと合併を選んだのが鹿島町と小高町だった。 ここで、鹿島町に住む若者の声(地元の掲示板)を紹介して、この章のまとめとしたい。 原町市に支配されても仕方がないと思った鹿島住民も多いはず。それで住民生活が守られるならそれでいいと・・・。 大部分の住民は、市に囲まれている町ですので、相馬でも原町でもよかったと言っている。本当は6市町村全部合併が理想だが。 「自治体の区分なんて、昔の交通の不便な電話もネットもない狭い地域社会時代の副産物で、我々の生活にはあまり意味を成さないという言い方もできます。要は、働いて子供を育て健康的に安心して暮らせれば、あとは個人の自由を謳歌し、ときには仲間と共同の喜びを知り、人間らしい生き方ができればそれでよいと思います。」 G田村市 H三春町(合併しない方針) 田村地方5町村合併協議会(滝根町, 大越町, 都路村, 常葉町, 船引町) 田村市のデータ 人口 45,052 人 高齢化率 23.8 %) 面積 458.30 k u 財政力指数 0.28 経常収支比率 89.6% 田村市の場合は比較的スムースに合併協議が進められた。もちろん波乱はあった。しかし、初期の段階だったのが幸いした。早い時期に合併の枠組みが決ったので、伊達市や南相馬市のような波乱劇は避けられた。 合併に至る流れとしては、14年3月、田村郡7町村の首長をメンバーとする田村地方広域行政研究会を設置。10月には6町村で任意協を設置。(三春町は参加せず) 翌15年3月、小野町が離脱。以後は残る5町村で粛々と協議を進め、18年1月、田村市が誕生した。 新しい庁舎は3 年を目途に建設することとし、旧船引町役場庁舎の2 階を仮庁舎とした。 クラスターによる地域づくりで旧役場5 ヵ所をそれぞれ行政局として、住民に身近なサービスは従来どおりとし、本庁で行うことが効率的である事務は一極集中とした。 議員 在任特例 (在任期間1 年2 ヵ月) 旧常葉町 町長は退職、助役は新市の収入役。 旧船引町 町長は新市の市長、助役は新市の助役。 合併関係市町村の基礎情報
まとめ ○参加しなかった三春町と小野町はいずれも田村郡のはずれに位置する。 ○三春町は郡山市に隣接し、城下町であったことから独立心が強く、プライドも高い。住民の多くは田村郡より郡山市への関心が高い。 ○小野町も古くから栄えた町で、県の出先機関もあり、周辺町村のリーダー格的存在。郡境を越えて、小野町中心の合併を模索したが失敗。やむなく自立を選択。 ○三春町と小野町は、伊達市で言えば、桑折町と保原町のような存在。その2町が最初から参加せず、合併をリードしたのが調整型の船引町長だったことから、よりスムースに協議が進んだ。 ○いずれの町村も財政的に厳しく、交付税の大幅な削減で追い詰められた状態。合併より他に選択肢がないというのが共通認識。それが合併への強い推進力となった。 ○課題(特に財政問題)はあるにせよ、新市としてのまとまりは良好。クラスター方式による合併が成功するか、今後に期待したい。 I棚倉町 K塙町 L鮫川村 棚倉町・塙町・鮫川村合併協議会(2003/9/30解散) 参加自治体 棚倉町,塙町,鮫川村 基本データ
福島県で最初につくられた法定協がこの棚倉、塙、鮫川3町村合併協議会だった。それだけ東白川郡(矢祭町を除く)3町村の取り組みは早かった。 13年12月の合併研究会に続き、14年2月には任意協、7月には法定協の設置。行政ベースで合併協議はとんとん拍子に進み、15年7月の住民投票を迎えた。 ところが、結果は、塙町、鮫川村で合併に「反対」が「賛成」を上回り、法定協は解散。合併は白紙に戻ってしまった。 ご覧のように、3町村合わせた人口は約3万2千人。特例法の条件緩和で「今が市になれる最後のチャンス」。市になれば、福祉事務所が設置され、生活保護や各種手当の交付決定などができる。また、地域のイメージアップにもつながる。というわけで、市になることが合併の最大の(わかりやすい一般向けの)目標だった。 しかし、肝心の住民レベルでは、合併の必要性はいまひとつ浸透していなかった。 合併が破綻した理由について @合併すれば周辺地域が寂れてしまうという住民の不安にきちんと耳を傾けなかった。また、それへの対応が不十分だった。(地域への分権や自治区の設置など) A全国に先駆け「合併しない宣言」をした矢祭町の存在も大きかった。同じ郡内に合併しない見本があったことが反対派を勇気づけた。 B行政に自分の力を過信する傾向(油断)があったのではないか。(これはあくまでも推測だが) 都市部の住民と違い、行政(=お上)に楯突くのはタブーといった政治風土がまだ強く残っている地域。 住民への説明は後回しでいいと安易に考えた。 説明は新市の建設計画案がまとまってから。それまで説明会は一切行わないという方針だった。(協議会だよりは毎月発行されたが) Cそれに対して、積極的に行動を起こしたのが共産党を中心とする反対派(慎重派)の住民グループだった。 *日本共産党は「棚倉町合併問題を考える会」や「未来をひらく鮫川村民の会」など、保守から革新までの幅広い住民や議員と協力し、いまの合併が、国の地方向け予算を減らすための押し付けであることや、合併推進派が根拠とする財政問題は、合併では解決されないことなどを明らかにし、合併反対を訴えました。(赤旗の記事より抜粋) *また、鮫川村では、地元有志による「村づくりと合併を考える会」の講演会が開かれた。講師として招かれたのは「自立を目指す村」の著者でもある長野県栄村の高橋彦芳村長。 こうした状況の中で、合併の是非を決める住民投票が行われた。結果はご覧のとおり2町村(鮫川村は70%)が反対、合併協は解散した。 しかし、ひとつ注意しておかなければならないことがある。それは、この間の鮫川村の動きである。 住民投票については、合併協や3町村議会において、確かに話には出ていた。しかし、決して十分に議論が行われたとは言えない状況だった。実施に当たっては、合併・自立についての十分な情報提供と事前の説明が必要であり、いつ、どのような手順を踏んで行ったらいいか、あるいは投票の条件や判断の基準をどうするかなど、時間をかけて慎重に議論する必要があるからだ。 さて、これからどうしようと言うときに、鮫川村議会が住民投票条例案を可決・成立させてしまった。合併協や2町議会に先行して、単独で。しかも、議員提案で! 2月に開かれた第8回法定協で、委員の中から住民投票をすべきだという意見が出された。これに対して協議会は、事務局が条例案をつくり、これを各町村の議会で議決してもらって、それから住民投票を行うということで合意した。(このことを承知の上で、鮫川村議会が条例制定したことは言うまでもない) 慌てた棚倉、塙の町議会でも急遽条例を制定、これに追随したが、いかんせん準備不足で、結果的に鮫川村議会の「奇襲攻撃」(地元民のことば)が功を奏したかたちとなった。 *鮫川村の反対派議員は、いま住民投票をやれば反対が多いと考えて条例を議員提案した。(地元で聞いた話) あまりにあっけない幕切れであり、合併協も解散してしまったため、今となっては3町村の合併が何を目指したのか定かでない。議会の議事録(塙町、鮫川村)を見ても、熱心に合併が議論(一般質問等)された形跡は見当たらない。 鮫川村では、ただ一人、大楽勝弘議員(現村長)が何度か合併の問題を一般質問で取り上げている。(最初は平成11年第8回定例議会) 自治省から合併へ向けての動きがあるようだが、村として、合併をどのように考え対応していくか。となりのいわき市などの状況についても事前に調査・研究しておく必要があるのではないかと質した。 (この段階ですでに自治省は1万人未満の町村に対する指導を強化していた) それに対する村長の答弁は、郡町村会の定例会では合併については一言も出ていない。とくに財政には一番力の弱い村からは言い出しにくい。はっきりした答弁ができなくて申し訳ない。というものだった。 その後の議論における村長の答弁 国の押しつけ合併には全国町村会も反対だ。しかし、現実問題として、このような小さな村ではやっていけないので、やはり合併を考えざるを得ないのではないか。 大楽議員の意見・考え方 合併して良くなるとは考えられない。かえって不都合な部分、不便な部分が多くなる。だから、村民にとって不利益となる部分を早く見つけ、皆さんと相談して、その対策を考えておく必要がある。 それに対して、村長の答弁は、 合併しないでやっていけばそれが一番いい。しかし、何といっても財源がない。8割が依存財源。今後それが保障されないと予算も組めなくなる。強制合併には反対だけど、余りにもアメとムチが強過ぎる。というものだった。 行政の側からすればそうであっても、住民の側は、そうした行政の内情(財政問題)についてはよくわからない。それよりも、合併への不安を何とか(解消)してほしいというのが、一番の関心事だった。 だから、行政レベルでの合併協議だけでなく、その不安としっかり向き合い、きちんとした対応・対策を住民に示すこと。そして、それを合併のための最重要課題のひとつとして位置づけ、取り組む必要があった。 しかし、そうしなかった。それが十分でなかった。そうした認識が欠けていたことが、そのまま住民投票の結果として現れたといえる。 加えて、鮫川村の芳賀文雄村長は、4月に合併推進を最大の公約として出馬、当選(無投票)したばかりだった。 当然のことながら、合併は民意であると考えていたのかも知れない。 そして、自分は民意に沿って合併を進めているんだから、説明は後でもいいと思ったのかもしれない。 議会の議事録を見ても、住民への説明や住民の理解について、投げやりともとれるような答弁を繰り返している。 Q:町村合併の本質的な意義をどこまで住民に周知できたか A:これは理解するしないというのは個人の問題であって、(略)一々理解するしないという問題はあくまで住民投票だということで、こちらは進めてきている。 Q:村の財政状況が厳しいといっても、一般の人にはわからない。合併しなかった場合にどうなるか、住民は不安に思っている。当然、その話が聞けると思って出席したのに、そうでなかった。 A:合併についてはメリット・デメリットあるが、国の合併推進法という法律に基づいて進めているんだから、合併協議会も反対とか何とかの協議会じゃないんだから、、、、いままで協議会で決ったことを説明して、住民投票で決めるんだから、判断は住民がする。 「住民に認識があるかないかなんていうのは住民に差をつけること。やはり一人前の立派な住民だと思って行政は進んでいかなければならない」 選挙で選ばれたといっても無投票だったのに、このように、少し自信過剰ではないかと思われるような村長の議会答弁があちこちに見られる。 しかし、芳賀氏にとっては5期目の村政であり、これまでの実績からして、村民の信頼は厚いと考えたとしても無理はないが。 結局、住民投票で合併は白紙に。村長は7月17日、「合併問題に1つの区切りがついた」として辞職願を提出。さっさと辞めてしまった。 塙町議会の議事録から 住民投票については、塙町長も、「時間が足りなかった」「本来なら、細かくやって説明をした上で住民投票というのが正しい」「十分な話し合いができなかったことが最大の問題」と準備不足を反省。 また、「法定協をつくって進めてきたが、最終的に住民投票で決める」とし、「民主的にやるには投票以外にはない」「最終決定はすべて投票ですから、それを受け止めて行くしかない」と住民投票による決着を明らかにした。 確かに、塙町長の言うとおり住民投票は民主的な方法だが、十分時間をかけた説明や議論もなく、安易に住民投票を行うのは問題であり、リスクが大き過ぎる。 住民投票を行うには、その前に、判断材料となる情報の提供やわかりやすい説明、そして、首長は自分の考え方を示し、議会(議員)はさまざまな角度から広く深く問題を調査・研究、議論・公開し、その上で、各議員がそれぞれの立場から合併に対する自分の考え方を示すべきであり、もし、そうしたプロセスを経ないで住民投票が行われれば、それは形式的には民主的であっても、首長や議会(議員)の責任放棄であり、住民への「丸投げ」といわれても仕方ない。 ただ、一言弁護すれば、あまりにも特例法の期限(16年3月)にこだわり過ぎたのが大きな敗因であったことも事実だ。あとからこの期限が1年延長されたことを思えば、「そんなに焦って進めることはなかった」と関係者は残念がっている。 棚倉、塙、鮫川3町村の合併協議は、他に先駆けて進められたこともあり、他の合併協より1年早く進行していた。当然、合併の機運も盛り上がらず、準備不足の中で「住民投票」を行えば、反対と出る可能性はかなり高かった。(中心地となる棚倉町は別) 時間をかけてじっくり説明すれば、反対の強い鮫川村は別にして、少なくとも棚倉、塙の2町による合併は可能だったと思う。(市にはなれないが) それともうひとつ思うのは、合併するにせよ、自立するにせよ、将来のまちづくりをどうするのか、という議論があまりにもなさ過ぎたと思う。住民投票はその議論を振り出しに戻しただけ。合併という選択肢がなくなっただけで、将来の町や村の姿はいまだ見えてこない。将来の夢が描けない、財政カットのメニューだけが並ぶレストランの前に、いま町(村)民は立たされている。 <補足> 在任特例をめぐる混乱(調整の名に値しない調整案) 合併協議を進めるとき、議員の定数と任期の取り扱いも難しい問題だ。 棚倉、塙、鮫川三町村の合併協でも議員の在任特例をめぐって塙町と棚倉町の間で火花が散った。 「合併後2年間、新市の議員として在任する」という調整案が示されたからだ。 合併の期日が16年3月1日とすると、塙町の議員は選挙をしなくても、そのまま新市の議員になれる。しかし、棚倉町の議員は15年12月で任期満了、その前に一度選挙をしなければならない。しかも、定数削減(20⇒16)が決っており、選挙は激戦が予想される。また、そうなると、塙町の議員定数は18なので、人口が少ない塙町の方が逆に2人議員が多くなってしまう。 一体どういう考えでこんな調整案が作られたのか。協議会そのもののレベルが疑われるとしか言いようが無い。 M泉崎村(法定協設置を否決) N西郷村(法定協設置を否決) 白河市・表郷村・大信村・東村合併協議会(白河市, 表郷村, 東村, 大信村) 泉崎村と西郷村はいずれも西白河郡に属している。合併への動きは、平成14年1月、西白河郡8市町村の法定協設置を求める住民発議が行われたが、泉崎村、西郷村を含む5町村が否決。 翌15年12月、白河市の呼びかけに応えた表郷村と大信村の1市2村で任意協を設置。以後、法定協の段階で東村が参加。特例法期限ぎりぎりで1市3村での合併が成立した。新白河市の誕生。 合併に至る経緯の中で、ひとつ興味深いのは、白河市を除く3村で住民投票が行われたことである。結果は、大信村と東村が賛成多数、表郷村では反対が多数を占めた。(賛成46.7% 反対53.3%) 当然、表郷村は合併を見合わせるべきだが、実はそうはならなかった。 村は、すでに1月に実施していた住民アンケートの開票を住民投票と同時に行った。アンケートは、「賛成」・「どちらかといえば賛成」が51.5%、「反対」・「どちらかといえば反対」が40.6%という結果だった。 アンケートと住民投票を続けて行い、しかも、同時に開票するというのは一体どういう考えなのか、理解に苦しむ。というより、失礼だが、実施することの意味すらわかっていないのではないか。(あるいは、ひょっとすると、その逆にスーパー高等戦術なのかも知れない) それで村長はどうしたかと言えば、住民アンケートの方が回収率が高かったことから、アンケートの結果を尊重するとして、合併することに決めた。(住民投票が泣いている) *議会はどうかと言えば、こちらも合併推進派と反対派とに真っ二つに分かれていた。合併の採決までには村長の不信任案が出されたり(否決)、また、議長(合併反対派)の辞職願が出され却下されるなど、かなり紛糾したが、最後は賛成7・反対6で合併が決った。(もし、議長が賛成派だったら、逆に、賛成6・反対7で、合併関連議案は否決されていた) 私が視察した泉崎村と西郷村は、最初からこの合併には加わらず、独自路線を決めていた。 泉崎村は首長が世に知られた自立派であり、村の財政再建を成功させたことから、自立への機運が高く、また、西郷村は交通の要衝にあり、企業立地も進み、財政力(不交付団体)があることから、白河市を中心とした合併には全く興味を示さなかった。 J矢祭町 市町村合併をしない矢祭町 −矢祭町議会会議録から見えてくる姿− 国が市町村合併を進める中、それに叛旗を翻すかのように、「市町村合併をしない矢祭町宣言」を行い、一躍有名になった矢祭町については、すでに多くのメディアが報道している。 平成13年10月の宣言以来、矢祭町には全国から600を超える団体と6000人を超える人々が視察研修に来たという。7割は自立を目指す自治体であり、残りは税金の無駄遣いとまでは言いませんが物見遊山であり、そのような状況であります。(18年3月議会における根本町長の発言から) そこで、これまであまり報道されることがない矢祭町議会の中では、実際、合併についてどのような議論が行われていたのか、ホームページには公開されていない矢祭町議会の会議録からそれを探ってみた。 まず、会議録全体についていえることだが、総じてこの地方の会議録はページが少ない。一般質問の件数も少ないし、予算・決算の質疑もごくわずかである。恐らく、肝心なことは本会議ではなく全協で話し合われるのかとも思うが、矢祭町に限らず、もう少し議会審議の充実をはかる必要があるのではないかと思った。 さて、矢祭町議会において、はじめて市町村合併の一般質問が行われたのは、平成11年12月の定例議会だった。共産党の圷豊明議員が、地方交付税の削減と合併の押しつけについて、町長の見解を質した。 それに対して、根本町長は、「さて、市町村合併でありますけれど、よくぞ質問していただいた」と、歓迎の意を表明し、さらに他の「18名全員の皆さんにもご質問をいただきたいと私は喉から手が出るほど思っていた」と続けた。 町長の基本的な考え方は「薄い水と濃い水を混ぜても濃くはならないし、濃い水と薄い水で薄い方はよかっぺげども、濃い方は困る」というもの。 そして、まとめとして「合併というのは、あの大領土主義のソ連が崩壊したように、うまく行かない。自由な経済で行くなら小さな政府で競争の原理を働かせないとうまく行かない」と持論を述べた。 平成13年10月31日、町議会臨時会が開かれ、「市町村合併をしない矢祭町宣言」が議員提案された。 提案理由の説明は総務常任委員長の立花利夫議員が行った。 「市町村合併をしない矢祭町宣言」の決議についてを説明いたします。 国は、今市町村合併特例法を盾に国家財政再建を前面にして強引に平成の大合併を推し進めている。 本来、合併は将来にわたって個性豊かな魅力ある地域社会を構築するために、地域社会と行政が一体となって十分に論議を尽くした上、自主的に判断し、実現すべきものであり国は市町村合併を強制すべきものではありません。 本町議会は一昨日、常任委員会正副委員長会議を開催し、矢祭町は市町村合併をせず、先人から引き継いだ郷土矢祭町を子々孫々にまで残す自主独立の道を選択することを決め、本臨時会に決議案を提出した次第であります。(議事録より抜粋) 提案理由の説明の後、8人の議員が賛成討論を行い、全会一致で決議案は採択された。 宣言が採択されたというニュースはあっと言う間に全国に広まり、矢祭町は市町村合併をしない町として有名になった。(多くは賞賛の声) さて、「市町村合併をしない矢祭町宣言」に続き、矢祭町議会は、議員定数を一挙に18名から10に削減して、またまた世間をあっと驚かせた。 根本町長も「自立するために議会自身が選んだ厳しい選択で、合併しない宣言に次ぐ大英断」と評価。また、多くのメディアも「さすが矢祭町」と絶賛した。 しかし、そうしたメディアに現れた顔とはまた別の顔が、矢祭町議会の会議録からは見て取れる。 実は、全会一致で行った宣言の場合と異なり、議員定数については議会の中が割れていた。それは議員定数調査特別委員会の報告書に対する反対意見や定数条例の一部改正に対する反対討論の中にはっきりと見て取れる。 まず、共産党の圷豊明議員は、以下のような発言をしている。 報告書は承認できない。その理由は、3月の臨時会で委員会の設置が決った。しかし、この6月まで、3月間、委員会は調査もしなければ、話し合いもない。6月20日の第1回の委員会で、それぞれの委員が自分の意見を言っただけで、それでもう定数を決めてしまうというやり方は、調査委員会の名に値しない。 たった1回の集まりでそれぞれの議員が自分の持論を発表しただけで、それが多数だということで議決してしまう、そして条例をつくってしまう。こんなことは議会として許されることではない。 また、高信秀勝議員も怒りに満ちた発言を繰り返している。 私も承認できない。3月に議長さんが自ら委員長、副委員長を招集して、今年の12月までに結論を出す。その間に、2〜3回の研究会を開くと決められた。町長さんの次に偉い議長さんが、自分の決めたことを守らないで破ってしまった。多数決で決めたにしても、「数は暴力に等しい」ことにもなるわけで、私は認めることはできない。 条例に対する反対討論では、(約束を破った)議長の責任は許すことができない。この場で議長の謝罪を要求する。もし、謝罪がなければ、常任委員長として今後議長の命に従うことはできない。と激しい調子で今回の決定に対する不満をぶちまけた。 結局、賛成多数で定数の削減が決ったが、このように、議会の中では反対の声もあったこと、そして、定数を検討するために設置された調査特別委員会が調査らしい調査は一度も行わず、少なくとも委員会は数回開くという議長の約束も反故にし、たった一度の意見聴取だけで結論を出してしまったこと。議会のルールを無視したやり方に対して、一部の議員からは強烈な批判と不満の声が上がったこと。そうした点をわれわれ議会人としては見逃してはならない。 首長と議会の関係についても、矢祭町には一種独特の雰囲気があるのを感じた。 定数が18名から10名になり、選挙を控えて8名のベテラン議員が引退を表明した。その8名の議員に対して、根本町長は、任期満了の前日に開かれた臨時議会で、ひとりひとり丁寧にオマージュ(敬意と賞賛のことば) を捧げている。他の議会ではまず見られない風景である。 一方、議員の質問に対しては、尊大ともいえるような答弁も見受けられる。一例を挙げると、 Q:定年退職した役場職員の公共施設への再就職、いわゆる天下り的な人事は、今だかって行われている。古い体質がそのまままだ残っている。このような人事は他市町村でも行われているが、なぜこのようなことがいつまでも行われるのか。どのような理由で誰が決定するのか伺いたい。 A:役場職員の天下りは誰が決めて、誰が、当然私ですよ。人事権は私ですから、それで私の専権事項ですから、これは答弁をする必要もないし、答弁しようとも思いません。人事に対しての答弁は、一切必要ないというのが私の判断ですから。 首長がこんな答弁をしたら議会は紛糾すると思うが、矢祭町議会では再質問もなく、平穏のうちに幕を閉じている。 最後に、矢祭町自治基本条例について触れておきたい。条例は前文と全10条からなるシンプルなものだが、自治に関する(根本町長の)考え方が独特なので一部引用することにする。 「町民の責務とか役割りというのは非常に曖昧な文言なんですけど、町民がどうすべきかと言うものは自治基本条例の範囲を超えていると私は思うんですね。この町民は納税者ですからどうしようとこれはあのー非常に酷だというのはおかしいんですけど、いわゆる自治基本条例というのは役場そのもののこの役割りあるいはこのー哲学というものを定めるのが自治基本条例だというのが私どもの判断です。」 ここから読み取れるのは、自治というのは住民自治のことではなく、役場の自治だということ。役場は町民(=納税者)のために頑張る、自治基本条例はその役場の哲学なんだ。というのが提案者である町長の基本的な考え方。 しかし、それだったら正しくは自治基本条例ではなく「行政基本条例」と言うべきではないか。(道庁をはじめ北海道の自治体に多い) 本町においても、すでに自治基本条例が制定されている。条例は、住民参加の専門研究委員会を設け、条例(案)についてはパブリックコメントにもかけ、2年がかりで策定されたことはまだ記憶に新しいところである。まさに、主役である住民の参加は不可欠。 ところが、矢祭町で自治基本条例が住民参加でつくられたという話は聞かない。なぜなら、条例の主役は住民ではなく、主役は「役場」なのだから、その必要はないと考えたのかも知れない。 以上、会議録の中に現れた矢祭町の姿を見てきたが、ここでも根本町長の存在が大きいこと、いや、大きすぎることに一抹の不安を覚えた。 定数削減の反対討論で、ある議員が「執行部と議会は車の両輪です。片方の車輪だけ小さくしてしまったら、どんな名運転手でも正しく前進することはできない」と述べたのは、そのことを感じ取っていたからではないかと思う。 <全体のまとめ> 今回、主に市町村合併(自立へ向けた取り組みも含め)をテーマに、福島県内の15自治体を視察した。 まず、強く感じたのは、合併も自立も容易でないこと、そして、合併にも自立にも将来の展望がないことである。今回の合併は不十分(未完)であり、近い将来第二の合併が避けられないと強く感じた。 もうひとつ、合併といっても、詰まるところそれは行政(=役場)の合併であったということである。 住民の関心がいまひとつ盛り上がらないという声をあちこちで聞いた。とくに、普段あまりお役所に用がない住民(特に勤め人)はあまり関心がなかったようである。 *役場がどこに行こうと自分にはあまり関係ない。 ⇒行政の人間は、長年の習性から、市町村=役場(そのもの)という意識が強い が、住民にはそういった意識・感覚はない。 ⇒住民の最大関心事は「自分の生活」である。 今回の合併はもともと財政問題(行政に金がない)に端を発しており、理念なき合併だったことも住民の関心を遠ざけた。 *役場の台所が苦しいと言って住民に相談されても困る。 ⇒自分で苦しくしたんだから自分で何とかしろ。 ⇒それに役場の財政の仕組みなんて説明されてもよく分からん。 また、合併による新市の建設計画といってもほとんどが行政間での事務の調整であり、住民(地域での生活)レベルの話に発展しなかった。 と同時に、合併をしなかった自治体の自立計画もその傾向が強く、内容的にはほとんど行政の改革=行革が中心で、住民が関わる部分はほとんど皆無と言っていい。 昭和の大合併との大きな違いについても述べておく必要がある。 当時は、交通も未発達でいわば自給自足の状態にあったことから、住民同士の地域での結びつきも強固で、村落共同体としての町村のもつ意味は今日とは比較にならないほど大きかった。 しかし、産業・経済が発達した今日、住民の生活圏は行政の区域(市町村)を超えて広がっている。多くの人が通勤・通学で地域を離れ、むしろ一日中、村や町の中で生活している人の方が少ない。つまり、生活レベルでは、広域化がどんどん進行し、行政の古い枠組みの方が実態に合わなくなっている。 今日、多くの住民にとって、市町村という枠組みはあまり重大な意味を持たないのかもしれない。基本的な行政サービスがきちんと提供されれば、自分がどこの自治体に所属しようが、そんなことはさして問題ではない。 今日、住民の活動はボーダーレスであり、ある意味、住民レベルではすでに市町村合併が成立していると言えるのではないかと思う。(行政の方が遅れている) しかし、そういった状況にない地域もある。合併しても、いずれ取り残されてしまう山間の過疎の村もある。 全国一律の合併という選択肢のみでは、こうした現実には対応できない。地方分権の理念が、単なる行政の効率化だけでなく、地域の多様性の尊重であるなら、その多様性を認め活かして行く方向で、基礎自治体の多様なあり方を考えて行かなければならないと思う。
以上
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